ご家族の声

学齢期の思い出、よかったこと・成長を感じたときや困ったこと

2026.02.26

(北部支部・匿名希望)

小学生までは多動でじっとしていることが出来ず、目が離せなかった。体力もあり、毎日出掛けたがるので、長期の休み(夏休み等)、親は疲弊した。(ヘルパー派遣、放課後学童の福祉サービスがない時代でした)

 

(中部支部・K)

カナダではABCどころか日本語もたどたどしかったですが、8年間現地校に通いました。英語とともに日本語も上達していきました。帰国後は北海道、鹿児島、福岡等々に住み、それぞれの学校や作業所に通いました。北海道では全寮制の養護学校に通って団体生活を楽しみ、鹿児島では桜島を眺めながら片道2時間のバス通学で障害者職業能力開発校に通い、心身ともに鍛えられました。

 

(東部支部・S)

小学校から高校まで支援学校でお世話になりました。6年生の1学期間、足の手術のため、滋賀県の病院へ入院して併設の支援学校へ転校しました。元の学校とは違った学習や体験をさせてもらい、親元を離れて生活したことで、少ししっかりしたように思います。

 

(東部支部・匿名希望)

迷うことなく育成学級に入りました。悩みを同じくするたくさんの友人たちやすばらしい教師にも会えて、今でもずっと交流が続いています。人生の宝になりました。

 

(西部支部・上田)

娘が小1の時、育成会に入会しました。本部に行く役をいただき、知り合った当時の副会長の方々に、学齢期の本人たちが少ないことを訴えたら、「学齢部」を作ってくださり、担当の役もしました。娘も同学年は少なかったものの、いろいろな学年の本人たちと交流できました。私も重度から軽度までの本人たちと行事等で触れ合え、学ぶことが多かったです。また先輩方と接することも増えていろいろと教えていただきました。

 

(西部支部・匿名希望)

小学校の育成学級では、本学級との交流の機会がたくさんあり、課外授業などへの参加も声をかけていただき、お友達もたくさんできました。学校全体の雰囲気であたたかく感じられて、とても安心のできる場でした。

 

(伏見支部・N)

小学校のときは、家庭の事情で療育手帳を取りに行けず、普通学級にいました。学校の勉強には当然ついていけず、授業でじっとしていることも大変でした。コミュニケーションの問題が大きく、同じ学年の男の子からのいじめがすごかったです。近所の女の子たちが宿題とかもなんとか手伝ってくれていたのが唯一の救いでした。
小学5・6年生の時の担任の先生が、みんなを説得してくれて中学から支援級に入ることができ、療育手帳を持つことができました。私は、小中学校とずっと同じ学校で、学校は親よりも兄弟の方が身近で色々複雑な思いを抱えながら過ごしていました。読み書きが苦手で読める字が書けない兄が、ラジオや時計など機械が好きだったため、パソコン教室に通うようになると、ローマ字打ちができるようになり、自分の表したいことを文字にできるようになってよかったです。
高等養護学校に入ってからは、兄はとても楽しそうに学校に通っていて、やはり本人にあった教育の場が大切だと思います。

 

(伏見支部 匿名希望)

小学校に上がる時、育成学級で行くのか?普通学級か?本人の成長にどちらがプラスかを考え、学校の先生にもこちらの思いを伝えて育成学級で普通学級にも籍を置き交流の機会を考えていただけたことで、育成学級を選択しました。
中学に上がる時は地域の中学校の育成学級か支援学校か?本人に、様々考えた結果、支援学校を選びました。3年間という短いスパンではなく、6年間をかけて社会人として身につけるべきことを共に考えていける教育の場ということで、支援学校を選びました。結局は、本人にとって、楽しくのびのびいける場である事が大事だと思いました。

 

(伏見支部・匿名希望)

修学旅行の時、足に傷をつけて帰ってきました。交流学級の人にいじめられていたようですが、本人は遊んでもらっていると思っていたらしく、それがみじめで親としてはつらかったです。もちろん学校の先生には話に行きました。