トップページ > 子育て手記 > 子育て手記1
子育て手記1
 
私の子供の人生

一般社団法人京都手をつなぐ育成会 藤木 惠

 

現在本人は、本人の姉と二人暮らしの生活で、9年目に入ります。そこに至るまでのお話をさせて頂きます。

 

Ⅰ.幼児期 病院通いの日々
  2750グラムで生まれましたが、退院するときには、2200グラムになっていました。母乳も哺乳瓶からも飲まず体重が増えないので心配だから病院で預かりましょうか?と言って頂いたのですが、ここに預かってもらっても飲まない原因が分からないので、連れて帰りました。翌日紹介してもらった小児科の先生や、口腔科にも行きましたが、個人的に、「大食の子供と、小食の子供がいるからあまり心配しないで」と言われました。あきらめずに、違う病院に行きました。哺乳瓶になぜ吸い付かないのかと聞いてみますと、口の中の上あごと舌が真空状態になってこそ,そこで吸う事が出来て飲めるのです。彼女の舌は、右側の舌が波打っているから吸うのは、無理ですと言われました。それで重湯に粉ミルクを溶かしてスプーンで口に入れてごっくんと飲ませました。3か月検診の時は、体重が増えない事で今後の様子を診たいので、毎月来て下さいと言われました。3か月半で首が座りました。いろいろ大きな大学病院も行きましたが、又三か月後に様子を観ましょうと同じことを言われました。様子を診た結果どう手当てをしたらいいのか教えてほしかったです。そうこうしていると、取引銀行の人が、大きくなっても歩けない人が、治療に来られている病院がありますし、行かれますかと聞かれ即座に「はい」と返事しました。その病院で「アテトウゼ型脳性マヒ」と病名が付き、訓練が始まりました。日に4回歩行のための「ボイタ」と言う訓練でした。本人は、嫌がって泣きます。いやでも訓練をしないと歩けないしと、親子で格闘していました。その内寝返りも出来、一人で座れるようになり、いざって移動するようになりました。先生が、ボイタをやめてお友達と係るようになると、自分も歩いて移動したくなるからと先生に勧められ、親子併行通園を探しました。やはり歩かないとだめですねと、いくつか断られましたが、最初は、ぽっぽ教室にお願いに行ったとき年齢で断られましたが、通ううちに来てもいいですよと言ってもらいました。とてもうれしかったことを覚えています。病気を持った子供たちの活動があって、親は親でいろいろと勉強したように思います。この時期に健常児さんのおられる幼稚園や保育所との並行通園も、考えて見て下さいと言われました。思い起こせば、児童相談所は、ぽっぽ教室も親の私が少ない情報で、いろいろあたって断られながら、ぽっぽ教室にたどり着いた時も、今度紹介ポッポ教室をしようと思っていましたと言われ、また、1歳児検診の時、肢体不自由児の病院に行っていますというと次回その病院の説明をしようと思っていましたと、検診の時に言われそれを聞いてショックでした。なんでもっと早くに説明してくれなかったの。行くいかないは、私が決めるから。と思うのといろいろな情報を知ってるのと知らないのでは、こんなにも差が付き、成長が妨げられたと思いました。今に思えばこの当時は、情報が行きわたらなかったのかなと思います。

  歩けるとわかってから手取り足取り家の中で練習しました。靴を買いゆっくりながら徐々に手を添えると歩けるようになり、 保育所に1年間並行通園で2年目から九時~五時まで通わせて頂き、取組みもよく微妙ながら歩けるようになりました。3年目の先生が彼女の病気を理解していただき、出来ることを時間をかけてでも増やしてもらいました。そうすると本人も自信が付き皆さんと交わりたい事で、毎日保育所に行くのが楽しそうでした。

  言葉がやはり少なくこちらの言っている事は、分かっているようで、彼女の言う事は、私は、分かりますが、ほかの人には、マヒがあって分かりずらく、いい加減に返事されると、怒っていました。小学校の入学時、身体、知的と両方心配しんぱいしましたが、訓練の為に歩いて通える学校を選びました。いい先生に巡り会えて厳しい山登りや、持久力もつけてもらいました。この小学校時代に個人的に学校以外のいろいろなサークルに参加させて頂き、彼女の事を知って貰い、知り合いを増やしていきました。自主通学でしたが、歩いて通えるので一人で通っていましたが、マヒには、水泳がいいと言われて、スイミングスクールに通わせました。最初は、バスに乗るところを確認して、先回りに降りるバス停で隠れて確認していました。何回か練習しているうちに行けるようになりました。そのお蔭でマスターズに出してももらいました。中等部は、小学校の延長で上がりました。高等部の時の進路で、やっぱり肢体児の学校の方がいいのではと、相談をしましたところ、彼女は、今のままでいいです。白河養護に行きなさいと言ってもらい麻痺の方も自分なりに克服していると思いました。

 

Ⅱ.成長期
  育成会の支部の区割りは、その当時学校のある支部に所属することになっていました。彼女が、通っている学校が、北区なので中学卒業までは、北支部に所属していましたが、高等部あたりから、生活行政区になり上京区に代わりました。

  いきなり、生活圏で、上京支部になるという事で全く知らない支部のメンバーと顔合わせさせて頂きました。皆さんもお子さんが障害をお持ちの方でいろいろ共通点もあり、打ち解けて頂きました。家業の仕事をしながらですが、徐々に祥代も日々の生活に慣れてきて、高等部卒業する時の進路で、就労するより授産所が向いていると言われていましたので、色々なところを見学に行きました。左京区にある授産所に決めて、こと在るごとに、行事に参加しました。上京は、圏外ですと言われ、空きがないし、一年浪人かもしれないですと言われました。それでも良いです。待ちますとお答えしました。そうしたら5月の連休明けに通所の許可が下りてホッとしました。その後に育成会の役員で、総務を受け持ちました。役員会では、今まで知らなかった色々な情報を聞かしていただき、勉強になりました。京都市の地域生活支援事業で移動支援事業があるから申し込まないと、言われて福祉事務所に行ったことを思い出します。

  これが利用できたら、シンクロナイズドスイミングの練習に毎回通わせられると思いました。実際に利用してみると本人は、ヘルパーさんとおしゃべりをするのが楽しく、若い時代の話も弾むみたいで、何時も喜んで帰ってきます。ニフレルも行きました。今度は、通天閣のビリケンさんに会って、串カツを食べる計画を立てています。又、同じ事業所で、夜のデイサービスで6時~8時半ころまでテーマを考えながら、モノ作り、夕食づくりがありミーティングもあって意見をみんなで決めていくことなど集団生活を楽しんでいます。

 

Ⅲ.これからの人生
  制度やサービスを利用しながら、一人住まいが出来るだろうか?
  親亡き後に姉、兄の兄弟、近くの従妹、近所の知り合い、困れば育成会の相談、授産所の計画相談等を最大利用してやって行けるのだろうか?考え取り敢えず、私の60:30問題で計画を考えました。まずは、ヘルパーさんに家事援助をしてもらうには、どうしたらいいか?福祉事務所に聞きました。本人は、親と同居、本人の回りには、近くに兄がいる、隣に叔父さん家族がいる。隣の町内にもおじさん家族がいるとなると自宅にヘルパーさんは、出せないと言われました。じゃー本人が、一人住まいをするしかないと思い、家の近くで小さな家かマンションの一室を探しました。本人にもこの先ヘルパーさんに助けてもらいながら、困ったことがあったら、お母さんが、生きている間にどうしたらいいか言えるので一人住まいを練習しようね。と繰り返し言いながら言っていました。その間も定期的にショウトステイを利用していました。実家の近くでと言うとそう簡単に見つかりません。3年目頃に家から80歩くらいの所に、売り家と旗をたてようとしている人がいて、願いが届いたかと思い、すぐに聞きに行きました。契約が成立し、姉に一人住まいの事を相談しましたら私が行ってあげるし、二人住まいで良いのでは、とのことでまとまりました。

  後は、本人に告白です。実際頭の中だけでわかっているから大泣きすると思っていましたが、本人は、「一回そんな生活してみたかったからいいよ」と、二つ返事で、OKと言ってくれました。私は、少し、ショックでした。住まいが決まったら、福祉事務所と事業所と本人家族とで、計画を立ててもらいました。ヘルパーさんには、週2回火曜日と木曜日の夜2時間と、移動支援32時間、ショウトステイは、月2泊を現在も利用しています。月曜日夜フラットにも出掛けます。これだけのサービスを使っていても十分ではありません。

  サービスの利用計画の申し込みや、キャンセルの届けなど、又、季節ごとの服の衣替え、金銭の管理、病気の気付き、治療の継続、偏りのない食事、清潔感、散髪、歯磨き、爪切り等々、考えればきりがないです。

  現在に至るまで、本人の明るさと素直さ優しさで、いろいろな人たちとお知り合いになりました。社会福祉法人北摂杉の子会の松上先生は、障害の子がどれだけ家族以外の人たちに知って貰っているか、どれだけ知っているかで、障害の子が生きやすいか、幸せか!と昔聞いた話ですが、本人の人懐っこさで色々と声をかけてもらってありがたいなと心から感謝しています。又、上野千鶴子先生は「親業からの卒業は、障害の母には、卒業が無い。子育てのゴールとは、子供の自立とは、私がいなくてもこの子は、生きていける事。自立とは、依存先の分散である。依存の需要と供給で、囲い込まないで、依存先を増やし依存者をたくさん見つけてください。」とおっしゃったことに共感しました。将来、本人の取り巻く環境を大事にしていきたいと思います。