この秋、53才を迎えた息子は重度の自閉症です。平成3年の夏、最愛の父を亡くして2年が過ぎた平成5年の秋に施設入所し、今年で26年になります。思えばこの2年の月日は私と息子にとって試練の時でした。言葉が少なく読み書きソロバンには全く関心を持たず一方で身体能力は年齢相応に発達し私の故郷四国の海でプカプカしているうちに幼くしていつの間にか25メートルを泳ぎ切っていました。
そんな息子に疎開して若狭の海に育った父親は好きなゴルフをやめて休みを利用しては夏の若狭に、そして琵琶湖に通い付き合ってくれていました。いつしか入江を横断したり沖に出たり深い海に飛び込んだり、そして1年を通してプールを楽しんでいました。まるで魚のように水に親しむ息子でした。
また、中学生になると大人の自転車を乗りこなし、サイクリングにそしてハイキングにと自然に触れ合う余暇でもありました。
小さな旅も好きな父親でした。
そんな、こよなく愛してくれた父親が通勤帰りの梅田で吐血し、治療のかいもなく、1年も経たぬ間になくなりました。
位牌を手に葬式に臨みお山見送ったのですが、その死を受け入れられず、病院の許しを得て父親の眠った病院通いが2週間続きました。そして旅した思い出の地、敦賀に、信州松本に、姫路に吉野に夜更けに補導されることが続きました。また一緒によく立ち寄った本屋さんの店頭の雑誌を舗道に払い投げる、可愛がっていただいた喫茶店を覗き、いただいたお冷を飲み干し、ガラスのコップを床に投げつける、ご近所の庭先や屋根に靴を放り投げるなど行動はエスカレートするばかりでした。
美山育成苑にも大変お世話をお掛けしました。
夕食後、黙って家を出て帰ってこない息子を案じていると、夜更けて尋ね来たとの知らせが美山育成苑から何度受けたことになるでしょうか。家族と共に竣工式に参加したことが余程印象に残っていたのでしょう。最初の頃は、翌朝、列車で迎えに行かせていただいていましたが、その後はショートステイをお願いしても「帰ります。」と言って聞かず、苑の御厚意でJR和知駅まで送っていただき、一人で帰宅することも重なりました。
長く歩く道、そしてたどり着く場所と温もりのあるベッドは、息子にとってつらさを消化するにはかけがえのない場所だったのでしょうか。そんな息子を受けてめていただいたからこそ、今があると深く感謝しています。
色々あるなか、私も近江舞子に、プールにハイキングにと懸命に寄り添いましたが、息子の心は定まらぬままにことある毎に投薬が増し、顔つきにはつらつとした若者らしさがなくなる現実に、青年期の息子の対応に母親の限界を感じてなりませんでした。
今の息子を受け入れてくださる入所施設を探すなか、すでに施設入所されている上京支部の仲間から、運動会に誘いを受けました。親子で車に便乗させていただいて、運動会の現場、そしてその施設の理事長、園長を紹介いただきました。
御縁をいただいて全てを知ったうえで施設入所を受けていただきました。その時の施設の職員の方から、「薬を減らしながら本当の福井君を知るところから始めましょう。」とおっしゃっていただいた言葉は今なお、忘れられません。そのころ自閉症の療育が問われて、京都市内でも専門講座がしばしば開かれていました。私も息子をよく理解しようと参加を重ねた一人です。
その講座には、必ず息子の入居施設の職員の姿がありました。
全国的な研修会にも参加いただき、まず3人の自閉症のグループを立ち上げ息子たちの問いかけに正面から取り組んでいただきました。バス、トイレ、洗面所、リビングルーム、娯楽室、そしてボードには一人ひとりのプログラム、一人ひとりの作業スペース、静養室などを整備して自閉症の心に寄り添う支援をいただきました。
時がたった今、時折訪問して2人して山里の自然に身を委ねながら、散策の時を持っています。その穏やかな笑顔は仲間ともどもに一人ひとりを大切に支援していただき、得られた宝ものに他なりません。本人らしい健康で健やかな生活に恵まれた幸を実感する時でもあります。
秋が過ぎると年末年始の帰省です。
毎年元旦は、北野天満宮に初詣し、その足で近くの友人宅を訪ねています。元旦早々から暖かく迎えてくださる仲間がいる幸せに浸るひと時です。友人宅から今宮神社に足を伸ばして詣でたあと、長い行列に加わり名物の「あぶり餅」に舌鼓をうち、大徳寺を抜けて家路につくのがお定まりのコースです。私の歩数計は1万7千歩を示しています。あと何年肩を並べて歩けるでしょうか。健康第一の日々です。
施設では3年計画で新しく福祉ゾーンの建設に向けて取り組みが始まると伺っています。重度の高齢者向けグループホームなど、新しい福祉の動向に沿った計画かと思います。
息子のこれからを委ねたいと思っています。費用も年金の範囲に収まっています。滋賀県に住む娘や孫たちがそっと見守ってくれることでしょう。 |